第六回
『二度あることは……』
「待て、はやまるな」
煌々たる光を天空の月が放つ夜、それは突然やって来た。
「頼む」
そいつは明らかな千鳥足で俺に歩み寄ると、酒臭い息を思いきり吹きかけてきたのだ。
「頼む、止めてくれ……!」
だが必死の祈りも空しく、俺は通りすがった酔っ払いに胃の中のすべてをぶちまけられていた。
「とんだ災難だったね」
同情とも苦笑ともつかない呼びかけは、騒ぎが収まったしばらく後にあった。
結局俺に胃酸交じりのど派手な化粧を施したサラリーマンのおっちゃんは駅員に連れて行かれ、その後、この惨状を見かねたのか見回りの警備員がホースを使って洗い流してくれたのである。
ともあれ、
「いや、ビン・カンちゃんは無事で何よりだよ」
マーライオンもかくやといった激しい流動物の噴出に、彼女がさらされることがなくてよかった。
こんな思いをするのは俺だけでいい。
「ありがとう」
「いやいや。それにしても、雑聞氏はまだ起きないのかい」
「うん、そうみたい」
驚くべきことに、今の騒ぎもどこ吹く風で未だ雑聞氏は眠っているようだ。
もしかしたら、さっきのような事件が彼の身に降りかかったとしても、平然と眠り続けることができるのではないかとさえ思えてしまう。
とてつもない大物なのか、あるいは単に鈍いだけなのか。
いずれにせよ、俺のものさしで計れるような存在ではない。
まだ言葉一つ交わしたこともないのに、
そんな風に決めてつけてしまうのもどうかと思うが、少なくともこの肝の太さは尋常ではない。
「あ、誰か来たよ」
「そうみたいだね」
彼女の言葉に俺は意識を現実に戻した。あれは二十代半ばといったところか。
仕事帰りなのだろう、どこをどう見てもビジネスマンといった風体だ。
しかし、手には鞄しか見当たらないところをみるとあの中にごみを入れているのだろうか。
「でも、あの人ごみを持ってな……きゃっ」
同じことに気づいたビン・カンちゃんの台詞を遮るように、俺の体を衝撃が貫いた。
地震などではない。遠慮の欠片もない蹴りがこの身を揺るがしたのである。
「オラ、ふざけんじゃねえぞ。俺のせいじゃねえっつうの!」
愚痴を憤り交じりに吐き捨てながら、スーツ姿の若者はひたすら俺を蹴り続けている。
「あああああチクショウ」
驚きこそしたものの、これしきのダメージで俺がお釈迦になることはない。
だが、少し想像してみて欲しい。
いくら平気だからと言って、執拗に攻撃を受けて気分がいいはずがあろうか。いや、ない。
「チクショウチクショウチッキショォォォ!」
とはいえ、ますますヒートアップする彼を止める術は、俺にない。
気が済むまで待つことしかできないのだ。
それにしても、いつまで続けるつもりだろうか。
このボディがサッカーボールじゃないことくらいわかるだろう。
蹴るのは、要らないキャッチセールスくらいにしておいてくれ。
「……やれやれ」
何度ついたかわからないため息を漏らした時、
ようやく物音を聞きつけて警備員がやって来て、
「こら、何をしている!」
「あ、ひィ」
若者は情けない悲鳴を残し、全速力で遁走した。
「びっくりしたね」
「そうだね」
ビン・カンちゃんに相槌を打ちつつ、内心密かに嘆息する。本当にどうなっているのかと、俺はたずねたい。これがいわゆる厄日というものなのか。
そう思っていた矢先、今度は制服に身を包んだ女の子が姿をみせた。見たところ、特に問題はなさそうだ。
「今度の子は大丈夫じゃない?」
「そう、信じたいね」
冗談っぽく言う俺に、ビン・カンちゃんは明るくそうだねと相槌を打った。まさか、悪い出来事が立て続けにあるなんて誰が考えるだろう。
しかし、二度あることは三度あるもので、
なんと、口をすぼめた女の子が飛ばしたガムは、俺のボディにべったりと張り付いたのである。
「はは……」
これって、取れにくいんだよネ。
ほら、ガリガリとさ、ヘラみたいなもので身ごと削られたりしなくちゃいけないし。
どうなってんだろうね、これは。
「アザーズくん、大丈夫?」
「ああ、平気へいきこれくらい」
気遣ってくれるビン・カンちゃんに、俺は空元気を出して応えた。
「あの子にも、悪気はなかったと思うし」
そう付け加えたのは、ビン・カンちゃんへの気遣いもあったが実際そう感じたからで、
狙いを外したのを見て、少し後ろめたそうな顔をしていたのがその根拠だ。
それに、世の中捨てたものじゃないんだぜ?
こうして慰めてくれる隣人もいることだし、な。
とはいえ、さすがにこの日はあまり楽しい気持ちにはなれなかったことを追記しておく。
次回予告ッ!
生きていればいいことも悪いこともある。
雨の日が続くこともなければ、明けない夜もない。
世知辛い世の中でも、時には人の優しさに触れることだってある。
寝てばかりの雑聞氏だって、たまには起きたりするんだぜ。……愛、覚えていますか?